言ってしまうと、どうと言う話でもないのだが、昨日某テレビ番組を見てて、少し怒りのやり場がなかったので、文章に書いてみようと思う。

最近めっきり寒くなり、革ジャンを着ることが増えたのだが、ずっとシープレザーを着ていた人間が、たまにカウレザーの革ジャンを着ると、野球のグローブをまとっているような気分。

そんななんともやり場のない、独りよがりの怒りがずっとこみ上げてくるので、やれるだけやらなきゃいけないなぁと思いながらも、実はこの2ヶ月、詳しく言うとパリコレ以降、少し惚けた状態になっていた。

というのも、出し尽くした感がハンパなく、また2会場で行う、この労力の分散により、自分の力がないと本当にダメだ、ということに気づいた。

また、海外送金や終了後の生産会議の話、生産について管理する業務共々、自分は本当に向いてないと言うことに気づいて、少し企業としてこのままではいけない感が半端なかった。

妻にそのことを話せば、

「落ち着くまでやめたら?」

と言われ、それもそうだと思いながらも、何もしないことに対して苛立ちを感じていた。またそれに伴う、仕事先からの電話やメール、そういうものに対しても全てが何か嫌になっていた。そして気付けばもう12月。先生も走る時期である。

この苛立ちと言うものが、高校3年生位の時に常に感じていた苛立ちに似ている、と感じた。いわゆる既視感と言うものだ。何か見たことがあるような、感じたことがあるような、そんなモヤモヤがずっと続いていた。

歩けない苛立ちや、自分はなぜこんな体になってしまったのかとか、年上年下が活躍するのを見て焦る自分。

1998年の僕は常にそんなことばっかりを考えて、平日はスーパーでバイトをし、暇になれば学校に行き、たまり場のバンド場に行き練習をし、土日になれば美容室でバイトと言うなかなかハードワークをしていた気がする。

しかし、いざ仲間がやられれば、すぐに免許を取っていた僕はBMに乗って仲間と共に乗り付けたり、当時乗っていたモンキーに乗ってその場に乗り付けて、会ったこともないやつをただひたすら殴っていた気がする。

警察署に迎えに来てもらった親に対し、

「タバコくれや」

と、片親でありながら僕を一生懸命育ててくれた親に対し、そんな言葉を投げつけていた。

当時の僕は別に誰といる、どこに属する、そんな事は一切していなく、ただひたすら芸大に行きたいと言うために、バイト三昧、バンド三昧で、推薦入学をかました後も、ひたすらそんな事ばっかりをやっていた。

「もっと俺が大人だったら」

「もっと俺がお金を持っていれば」

「なんで俺の家こんなに金がないんだろう」

そんなやり場のない怒りを込めながら、毎日のようにほぼ街灯のないような田舎で生活をし、いつか見る都会に胸を馳せていた。

ある日友人が、

「あいつの家モロごと消してやるわ」

と、その友人の父親が乗るマークⅡを乗り、その喧嘩相手の家に突っ込むと言う事件が起きた。

まさかそんなこと実際にするとは思わず、その日スーパーでバイトをしていた僕、夜9時半に仕事が終わり外に出れば、見た事ある少年課の刑事が表で待っていた。

「なんすか、なんもしてないっすよー。」

そういう僕に、刑事は

「いやお前じゃなくてな…Aなんだけど…車で喧嘩相手の家に突っ込んでな…そのまま逃げちゃったから居場所がわかんなくてさ。お前のとこにいたらそいつが現れるんじゃないかな?と思ってたんだけど、いないようだね。」

と事の成り行きを、まさか刑事から聞かされるとは思わなかった。

一通り流れを聞くと、僕は刑事にこういった。

「仕方ねーじゃん、なめられたら終わりなんだよね、そいつが悪い。」

こういう僕に刑事は、

「お前はそういうことするんじゃねーぞ!」

と、当時乗っていたアウディ80をぽんぽん叩き帰って行った。

田舎と言うものは怖く、中高の時の関係性が一生涯続くと思ってもいいと思う。それを皆肌で感じていた。

単純に言うと、いくら大学で偉そうになろうが、大人になって金持ちになろうが、地元の昔からのヤンキーに逆らう事は許されず、いわゆる村八分状態になる。

それが子持ちになろうが、その子供もまたそのループであり、ずっとその状況は帰っていないからわからないが多分今も変わらないと思う。

僕はと言えば、少し特殊な関係性の家柄で、上級生にいじめられることもなく、むしろ下に逆らわれることもなく、少し変わった中高生だった。

同じように喧嘩もしたし、バイクにも乗ったし車も乗った。ギターも弾いた。酒も飲んだ。金がなければパチンコに行って、勝てばその金でそのまま服を買いに行く、そんな生活をしていた。

決してヤンキーなどではなく、少しおしゃれなやんちゃ坊、まぁそんな感じで周りには通っていたと思う。

警察も、派手に喧嘩をやり散らかした時以外は、むしろヤンキーが僕の家にいるんじゃないか、行方不明のやつはあいつの家にいるんじゃないかと、同じ敷地内にある僕しか住んでいない家に、よく訪ねて来ていた。

「いねーよ!」

「タバコ吸うんじゃねえ!」

と、学校の先生以上に先生の刑事、学校の先生が、

「あんた車乗ってたでしょ?見つかるんじゃないよ!生意気に外車乗りやがって!」

と、学校の友人より友人ぽかった。

そんな僕は、友人と言える友人がいたのだろうか?

喧嘩になれば誰某構わず平気で殴り、挙句木刀などを振り回し、親の中をナタをふり回すなど、勝つために手段を選ばない自分が必要だっただけではないかとか、ムカついたやつはダムに落とす、山に置いてくとか、上記を逸している行動を、平気で笑ってやってしまう僕が必要だっただけではないか?

そう僕も、学校で都会に行ったものの、結局はいずれこの街に帰り、笑ってそのまま暮らしていけるようにしたかっただけ。

上述したようなことも、僕としては「元気が出るテレビ」をリアルタイムでやっている、ただそれだけのような感覚でしかやってなかった。

そしてそのままあの街に墓参り以外、帰らなくなってしまった自分。

あの時の焦りや怒り、偽善に満ちた友人関係、どんな悪いことをやろうが、シンナーは前歯が溶けるから絶対やらないし、薬物は人生本当に終わりそうでやらなかった。ガスパンなんて女を無理やりこますためにやる最低の事だと思ってたし、鉛筆やコンパスの芯に墨をつけて、体に字を書いてたりするのをひたすらダサいと思っていた。

くそダサイことをしないと生きていけない、そんな街にも苛立ちを感じていたし、ギター上手い奴なんて誰もいない、イエローモンキーのCDを買いに遠くの街までバイクを飛ばさなきゃいけない。

「なんでこんなところに生まれたんだろうなぁ」

なんて、もうどうしょうもない事じゃないか、を常に考えていた。

1998年夏、僕は大阪の天王寺の、地元のバイト先で知り合った女の人の家に転がり込み、大阪の街で大学も含め、なんとなく今後この町で生活するんだろうなぁと言うことを考えながら、何週間かいた時の話。

すでに学校は始まり、軽音部の部長でもあった僕は、文化祭の準備をしなければいけなかったのだが、

「もう大阪から帰りたくねー、帰りたくない!」

と、一緒に住んでいた女性に言い、また、母親に電話し

「もうちょっと大阪にいる」旨を伝えた。

単純に街から逃げたとかではなく、大阪の方が性に合っている。

ギリギリでいい、帰るのなんて。

天王寺から、谷町線に乗り換え、天神橋筋六丁目の駅を出てすぐにある親戚のお兄ちゃんの家(というかアパート)。

夜12時から開く鰻屋に行きたい、食わせろと夜の11時ごろ、その家の前で待っていたら、その親戚の兄ちゃんが見た事ある人間と共に帰宅してきた。

担任と、生活指導部の先生だった。

親戚のお兄ちゃんは弁護士をしていて、まぁある意味同じ学校だった人間としてはかなり優秀な部類に入る。

田舎の公立高校なんてそうそう先生が変わることもなく、移動も付近を行ったり来たりで、1まわり半位の年齢差なら先生が被るなんて事はよくある。

「何しにきたんすか?」

と聞く僕に、

「鰻でもいくか」

と、笑いながら生活指導部の先生は僕に言った。親戚の兄ちゃんも笑いながら

「まぁ鰻でも食いながら」

と、天神橋六丁目の商店街を、天神橋筋五丁目に抜けるあのアーケードを少し入った所にある鰻屋にいき、鰻丼の一番高いやつを頼み、僕にこう言った。

 

「あのなぁ、みんな多分お前になりたいんだよ。車乗ってギター弾いて、いい服着て、ムカついたら人殴って、モテそうな美容師して、暇になれば大阪の年上の女の家に転がり込んでさ。そんな事、その年でやるやつなんて久々にみるから、ついついお前の将来がマジで楽しみになっちゃってさぁ。だからここで潰しちゃいけないと思ってさ、迎えに来たってわけよ。いいか、世の中には自由になる人と自由になれない人がいる。お前は間違いなく自由になる人だ。あと、その年であの街が全く似合ってない。みんな無理してでもあの街に染まろうとしている中で、お前には全くその節がない。それはお前が常に何か怒りを感じているからじゃないのか?常にあの街を出たい、そう思ってんだろ?その怒りっていうのはな人間にとってはすごい大切なことで、それを忘れたら人間と言うものは伸びるもんも伸びなくなっちまうんだ。怒りの力っていうのは大切なんだよ。ただな、その伸びる前の時期は、必ず人間が落ちる時と言うものがあって…いわゆる我慢の時だな。まぁ3人ともわかっちゃいるんだけど、お前は我慢と言うものが全くできない。それはな、今は必要ないと思っていても、人生、生きてると絶対どこかで必要な事が出てくるんだ。お前はまだそれはわかっていないだけで、人生最初の我慢の時が今じゃないのかな。少なくとも俺はそう感じたからお前を迎えにきたんだ、あと言うても3ヶ月じゃないか。推薦決まればもう来る必要もないし、ただ今学校にいないと、それ(学校推薦)すらも出せなくなってしまう。少しの我慢でまた、お前をあの街にずっといなきゃいけないようにさせるほど、俺たちはバカじゃない。いいか、人生、少し我慢しろ。その少しの我慢が大きな、大きな成長をさせる。これから生きていく中でも、多分そういう時はいっぱい出てくるだろう。その時はとにかく、少しでもいいからこの俺が言った言葉を思い出して我慢してみな。すごくいい事がその先に待っているようになるぞ。」

 

半泣きになっている担任を横目にしながら、生活指導部の先生は淡々とそう言いながら瓶ビールを飲んでいた。俺は黙って聞きながら、空のグラスを先生に差し出した。「馬鹿野郎」と言いながら、「一杯だけだぞ」と、その先生は注いでくれた。

後にも先にも、その後先生に酒を注ぐことはなかった。

次の日、親戚の兄ちゃんの家から僕は、担任の先生に天神橋六丁目にある「ストップ」と言うまでお任せで止まらない寿司屋で昼飯を食わしていただき、先生の車で地元に帰ることになった。

ここ最近、いろんな苛立ちや焦りを感じる。そのたびに、このことを思い出す。

どうしようもない時、何をしてもうまくいかない時、自分が何をしていいかもわからない時。

何十年か生きてわかった、「自分がはねる時」。

その、待機時間なのだと言い聞かせる。

今、何かにつけて感じる怒り、焦り、全て自分のために動く感情である。

大きく飛ぶための我慢の時なのだ。

1998年、僕は人生についてその後ずっと使う自分の、その「帝王学」を身に付けた。

不良中年教師と弁護士と、鰻とビールと共に。

ただなんとなく、ただなんとなく。

僕を包んだ、左耳のハーモニー。

まだ、聞こえてるようだ。


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